幡随院長兵衛誕生地の碑
(ばんずいんちょうべえたんじょうちのひ)




 幡随院長兵衛と云えば、知る人ぞ知る映画や芝居に幾度もなった江戸浅草の有名な侠客で、その男振りは大江戸の華と謳われた人物である。
(最近は歌舞伎で時々上演されている。)


場所:佐賀県唐津市相知町久保

JR唐津線 肥前久保駅から徒歩5分


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【 碑説明文(全文)】
 
 大正の末、郷土史家吉村茂三郎氏の調査研究の結果大江戸の華とうたわれた
一代の侠客幡随院長兵衛は当地相知久保の生まれであることが明らかとなった。

 長兵衛の父塚本伊織は当時松浦地方一帯を領していた松浦党の一族である
鶴田因幡守勝(大河野日在城主)の家臣でここ久保に館を構えていた。
しかし、松浦党盟主波多参河守親(岸嶽城主)が豊臣秀吉の勘気に触れ、
波多家が滅亡したため、伊織は一子伊太郎(後の幡随院長兵衛)を連れて江戸へ発った。
伊織は途中下関で病死したが、伊太郎は父の遺命で、幡随院の向導和尚を
頼って江戸へ上り、遂に男の中の男と讃えられる身となったという。

 当時は、豊臣の天下も大阪夏の陣で終わりをつげ、徳川八万騎の武名が赫々と輝いている時代であった。
しかし中には、槍先の功名を鼻にかけ、傲慢無礼、酒色にふける輩は
徒党を組んで横行するので、江戸町民の嘆きは一通りではなかった。
その旗本奴たちの横暴に敢然と立ち向かったのが幡随院長兵衛であった。
しかし、その対決の中で、旗本白柄組首領水野十郎左衛門の謀略とは知らず、
単身水野の屋敷に乗り込んだ長兵衛は惨殺されるのである。
ときに慶安三年(1650年)四月三日、長兵衛三十六才であったという。

 長兵衛の胸のすくような侠気(男らしさ)は江戸中の人気を集め、
これぞ江戸気質(かたぎ)の権化と仰がれ、歌舞伎、浄瑠璃、講談などに演ぜられ、江戸文化の華と称えられた。

記念碑は昭和五年に完成、除幕式は昭和十四年十一月 
角界史に不朽の名を残す大横綱双葉山が除幕の綱を引いて行われた。
  
  総高十五メートル、棹石高さ六.三メートル
  重さ十八トン、七山村狩川より運搬
  台石高さ二.一メートル、重さ四十八トン

 題字は唐津藩主の正統を受け継ぐ子爵 小笠原長生公によるもので、
クレーンなどない当時のこと、この棹石を台石にのせる工事は大へんなものであったとおもわれる。

 なお接着のセメント等は一切用いていないが、微動だにせず今日に至っている。
まさに日本一の石碑である。

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