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神埼宿 KANZAKI
目達原宿 METABARU  田手宿TADE

 街道御徒日誌(かいどうおかちにっし)

  2008年11月15日(土)曇りのち雨

    天気予報は午後からの降水確率60パーセントというので、少し躊躇したが思い切って朝9時に家を出た。
   今日の予定は、吉野ヶ里駅から目達原宿・田手宿を経て神埼宿までの道程である。
   距離は前後の吉野ヶ里駅と神崎駅への行き帰りを合わせて約8km余の中程度のコースである。
   
    中原宿から半里ほど西に行くと目達原宿、田手宿と小さな二つの宿場を経て、長崎街道25宿の中でも重要な
   位置を占める神埼宿に辿り着く。
   神埼宿は文献によると、寛永十七年(1640)頃にはすでに今のかたちになったものと考えられている。
   町の様子をうかがい知れるような記述がシーボルトの紀行文にある。
    
    「神埼は約千戸の気持ちのよい所で、八つの町にわかれていて、長さは一里に及ぶ。
     比較的少ない家数のわりにいちじるしく長いのは、これだけの戸数がたった二列に並んでいることで説明がつく。
     すべての町村に特有な町の作り方で、街路が交差している都市とは異なる。」
                                                   シーボルト 江戸参府紀行 より

    
   人家約千戸となっているが他の文献をいろいろみると、実際はもっと少なくて400~700戸とまちまちである。
   
    神埼市は近年町おこしの政策の一環として長崎街道の整備を行っており、案内板や町並みの保存などが充実している。
   したがって今回の史跡巡りはその点の苦労はしなかったが、天候に恵まれず午後から予想通りの雨になり写真撮影に
   支障をきたした。おかげで撮った映像が雨滴でボケ気味になってしまった。
   これも自身の不徳の致すところとであろう。
   
    なんとか濡れながらも神崎駅にたどり着いたのは午後3時半頃であった。
   今度からは雨のおそれが有るときは、気象庁を信じて見合わせることにしようと反省しながら車中の人となる。
   
                                                            写真は全て2008.11.15撮影




① 目達原宿入口
中原宿から国道34号線を西へ約1.6㎞程進むと
久留米分岐交叉点に辿り着く。
右側のガソリンスタンドのところを右折すると目達原宿



② 目達原宿の町並
町筋の突き当たりに祇園社がある。
祇園社の前を左に進むと田手宿方面



③ 目達原祇園社
公民館が併設されていて町民の社交場風



祇園社(右)前の恵比須像と「こて絵」の有る薬局(左)
街道は左奥が目達原商店街を経て田手宿方面



④ 恵比須像

佐賀県内にはいたるところに恵比須像がある。



⑤ こて絵
以前は祇園社の前に古民家があり、その二階部分に
こて絵があった。今は古い家は取り壊されて薬局になり
こて絵だけは写真のように薬局の外壁に保存されている。



長崎街道は再び国道34号線にぶつかるが
ここを横切って直進すると田手宿方面へ行く。
交叉点の左側一帯は陸上自衛隊目達原駐屯地



「旧目達原飛行場正門跡」
目達原宿から田手宿へ行く途中の街道沿いにある。
大刀洗陸軍飛行学校目達原教育隊の文字がかろうじて
読めた。また特別攻撃隊273振武隊として
ここから多くの若者が敵艦を求め飛び立っていった。
   「 南海に 華と散りにし ますらおの 
                   御魂とどむか 基地の夏草 」
 



⑥ 追分石
「日本六所背振山辨財天道」



⑦ 田手宿町並
          従是北 上宮嶽三里三十町
                白○堂三里余(一字判読不明)
「川をはなれて一村あり。多手町といふ。左に寺あり。
 又土手の上に小社有り。右に曲がれば人家たちつゞけり。」
                      大田南畝 小春紀行 より



⑧ 田手大神宮
子供たちのかっこうの遊び場となっている。



田手川
橋を渡った右岸が神埼宿方面



⑨ ひのはしら一里塚
一里塚は、江戸時代徳川家康の命により、慶長九年(1604)日本橋を基点に全国の主要街道に
設置された、五間(約9m)四方で高さ一丈の規模の塚である。
この一里塚は、江戸までの距離を示すとともに、旅人に休息と木陰を与えるために設置された。
小倉を基点に長崎に至る「長崎街道」においても、一里塚が設置されていた。
しかし、現在長崎街道沿線には当時の築山を残す一里塚は残されておらず、
この「ひのはしら一里塚」が唯一の築山をのこすものである。
したがって長崎街道の一里塚では、ここが唯一現存する貴重な歴史的文化財である。

ひのはしらの地名の由来は、ここに櫛田宮の赤木鳥居が建っていたことから呼ばれるようになった。




⑩ 神埼宿入口
この長橋(ながばし)を渡ると神埼宿



⑪ 東木戸口跡標柱
長橋のたもとにある。



⑫ 東木戸口跡
実際に木戸番所があったと思われる場所
木戸の開門は明け六ツ時(午前6時)
閉門は暮れ四ツ時(午後10時)だった。



⑬ 円楽寺/多門速明師墓所
多門速明は円楽寺の住職で明治19年シベリア開教使
としてウラジオストックで布教にあたり現地で没した。
その功績により弘誓院の院号を授与される。



街の店舗はイメージを壊さないように
白壁土蔵造りに改装整備してある。
(中華料理とバイクの店)



宿場の中心部を流れる馬場川
左側を西水馬場、右側が東水馬場という。



⑭ 櫛田宮
櫛田宮は宿場のほぼ真ん中にありこの宿場の
中心的施設である。その歴史は古く今から1900年
前に創祀され皇室領神埼荘園の総鎮守の社であった。


⑮ 宿場標柱/櫛田宮石碑/道路元標

神宮入り口三つの石碑が並んでいる。
伊能忠敬もここを基点に測量したという。



櫛田宮「琴の大楠」
樹齢700年で根元部はほこら状になっている。



「神埼発祥の地」
神埼(かんざき)の地名は神幸(かむさき)
からきたものだという。



櫛田宮の太鼓橋と池
神宮の境内は約4000坪、池の大きさは約300坪



⑯ 問屋場跡
馬や人足・飛脚の用立をするところだった。



⑰ 光蓮寺
江戸時代には門前で市がたち賑わっていたという。


七日町の町筋
名産「神埼そうめん」の製造所が多くみられる。



⑱ 木造薬師如来坐像/脇侍菩薩立像
(県重要文化財)

もとは櫛田宮に祀られていたが明治の
神仏分離政策によってここに移された。



神埼宿は、土蔵造りの家が実に多く残っているが、
度々の大火と佐賀の役の戦乱で、江戸時代の建物
は一部の寺などを除き大方は焼失しているので、
これらの建物はおそらく明治以降のものであろう。



⑲ 眞光寺
外国使節や通信使等が脇本陣として利用した。
シーボルトも寺に泊まったと紀行文に書いているので
あるいはこのお寺だったかも知れない。



眞光寺前の街道筋
長崎街道神埼宿場として町おこしが図られ、
事業の一環により道路のカラー舗装がなされている。



⑳ 西の木戸口跡
肥前路の中ではかなり予算を使って復元されている。
 こんなにちゃんと復元された木戸口は初めて見た。
この前には街道茶屋が軒を並べている。




神埼宿の西の出入口
左が長崎街道で、中央の公園が西木戸口跡
右側の道路は近年出来た国道34号線への合流口
左の道を城原川沿いに行くと境原宿へ

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