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佐嘉宿 SAGA

 街道御徒日誌(かいどうおかちにっし)

  2008年9月22日(月)晴れ

   よく晴れた初秋の一日を、長崎街道「肥前佐賀路」最大の宿場である佐嘉城下を歩いてみた。
  佐賀という地名は「栄えの国」が転用され「佐嘉」となり、明治以降「佐賀」と統一された。
  この宿場はなんといっても佐賀藩の政治の中心鍋島36万石のお膝元であり、見所はたくさんありそうだ。
  そんな佐嘉宿御徒の出発点は佐嘉の東の入り口「構口橋」から歩き始め、ゴールは西の入り口八戸番所跡とする。
  距離約6km、所要時間約4時間とみて、午前10時に牛島町の構口橋を渡り始める。

   コース全体の印象はほとんどが町中で、特に初めのうちは商店街のアーケードを通ったりするので
  長崎街道を歩いている感じがしない。
  街道全道の道路両端の側溝蓋に、振り分け荷物姿と馬に乗った旅人及び籠かきの絵が描いてあるので
  それを辿りながら行けば迷うことがない、かなり気楽な行程である。
  大変な手間をかけてあるこの配慮は、歩いてみるとその訳が自然と判明する。
  それは街道全般を、佐賀藩の防衛に対する用心深さからか、下の概要図を見れば判るとおり
  旅人にできるだけ城郭を見られないように複雑に迂回して、城から離れていくような道筋に周到に作られている。
  そのため街道は実に曲り角が多い複雑なコースになっているのだ。

   目印のおかげでほとんど迷うことなくゴールまで辿り着いたのは予定通り午後3時であった。
  食事や休息の時間を差し引けば、約4時間の道程であり、手頃なコースである。
 
   7月に田代宿を歩いたときは、何組か出会った長崎街道巡りの観光客は、今回は全く見かけなかった。
   一時ブームになった長崎街道巡りも下火になってきたのかな?と考えながら家路についたのであった。



    今回納得できなかった事が二件あった。街道の要所々に立ててある「佐賀城下見て歩き」という案内板や、
   観光案内所で配布している案内図などに書いてある「長崎街道コース」の史跡の内で、
   立ち入りを拒否された所が一ヶ所、 全く入れない所が一ヶ所あった。
   それは「高寺(龍造寺)」と「築地反射炉跡」である。
     お寺では入った直後、関係者らしい人に立ち入りはできないと断られた。
   築地反射炉跡は小学校の敷地内で、関係者以外立ち入り禁止の看板とともに、校門をピッタリ閉じてある。
   普通に見られない史跡はコースから外すか、その旨案内文に明記するべきである。
     他県から来た人がこんな目にあったら申し訳ないと感じた次第である。
    
                                               (写真は特に記している以外2008.9.22撮影)


    
佐嘉宿の長崎街道は側溝の蓋に徒歩及び馬に乗った旅人と、駕籠の二種類の絵が描いてある。
街道を辿るときこの目印通りに行けば、迷うことがない仕組みになっている。

    
1 構口橋と番所跡
佐嘉城下長崎街道の入り口
佐嘉城下の東の入り口が構口である。長崎街道はこの構口を通り、牛島町、柳町、元町、
白山町、多布施町、伊勢町、六座町、を通り八戸町に至る。

構口にはその名が示すように佐嘉城下の要衝の一つである番所が設けられていた。
当時街道を通行する旅人は必ずこの番所を通らなければならなかったが、
旅人の中には脇道街道を利用する者もあり、藩当局を悩ませていた。
そのため、天明五年(1785年)には構口、八戸、そのほか数箇所に木戸や番所を設けて防備の強化を計っていた。

今日、むかしの建物は残っていないが、跡地に残存する敷石により藩政時代の番所をしのぶことができる。
(構口説明板)


番所跡がある牛島町の街道


2 思案橋
橋の架かっている紺屋川の上流は芦屋町の歓楽街、
下流は遊郭街で「行こうか、戻ろうか」とこの橋で思案した。


3 南蛮寺跡
南蛮寺(キリスト教会)があったと思われるあたり


佐嘉宿の街道筋には約50体の恵比須像があり、
城下には370体あるといわれる。


柳町の古い家並
旅人のために赤い毛氈を敷いたバンコ(縁台)
がおいてあり、腰をおろして休息できる。


4 旧三省銀行
米相場取引を主とした明治15年設立の銀行


5 旧牛島家

江戸期の建築で佐嘉城下に残る最古の町家


旧森永呉服店


6 旧古賀家
古賀善平の住宅で明治期の上流階級の邸宅


旧中村家
開業期の古賀銀行の社屋だった。
現在は自然食材を扱った食事処となっている。


長崎街道名産「富士の煙」製造所跡
佐賀のタバコ製造販売が本格的になったのは、江戸時代の寛政年間(1789~1800年)である。
六代の祖森永忠左ェ門が肥前鍋島藩の御用煙草として、現在地で「幾作美御多葉粉」(きざみおたばこ)
の銘柄で製造販売に務め、佐賀の銘品として広くその名を知られるようになった。

芳薫の妙味で名を広めた「富士の煙」は薩摩の国府葉、豊後の竹田葉、筑前の久喜宮葉などを
直接買付けて今宿港の倉庫に荷揚げし、熟成した後、刻箱に移して吟味調整したものである。
その後「富士の煙」は最新型の紙巻煙草に改良され、当時の大隈重信もそれを愛用し、
紫煙の輪をふかし、例の大風呂敷で訪問客を煙に巻いたといわれている。
政府は日露戦争の戦費捻出のため明治37年7月1日専売法を公布した。
それに伴い民営の煙草製造はすべて官営として吸収、移行されることとなり、
「富士の煙」も姿を消すことになった。(説明板)


7 旧古賀銀行
明治18年に両替商をしていた古賀善平が設立
現在資料館となっており、喫茶室もある。


8 八坂神社


9 馬場家住宅・高宗家薬医門(佐賀県遺産)
幕末から明治初期にかけては、馬場家の祖先にあたる鍋島藩の藩医を務めた漢方医の
高宗弘堂が居住し、この家で開業したと伝えられるが、嘉永七年(1854年)「佐賀城下竃帳」には、
岡部杢之助組侍の古賀元恭が居住していたとある。
十八世紀末から十九世紀初期の建築と推定され、表の腕木門も同時期と考えられる。
表構えは他の町家とさして変わらないが、むしろ武家屋敷に近い間取りを示している。

佐賀県遺産会議


松原町付近裏小路の水路
佐嘉の町中はこういう水路が縦横無尽に切ってある。


10 晒橋
よく注意していなければ、気づかず通り過ぎて
しまうような小さな橋だった。


11 佐賀藩本陣跡
本陣は、主に幕府の役人の宿泊所にあてられていた施設のことです。
寛政末期、この地に住んでいた御用商人野口恵助の自宅を借り受け、
佐賀藩の本陣として使用されましたが、その後、藩は隣接屋敷地の買収などを重ねて、
御書院、寝所、御次、家老屯など数多くの部屋を備えた呉服町本陣屋敷がこの地に整備されました。
(本陣跡説明板)

 
12 追分石・恵比須像
呉服町名店街アーケードの中(左の写真)のひぜんえびす屋(和菓子屋)の店先に
追分石があり、長崎街道は写真奥の方(こくら)から、写真左(ながさき)の方へ進んで行く。


呉服町名店街アーケード、白山アーケード街を
通り抜けた所の道標 右手の道路奥に願正寺


13 願正寺
呉服町の本陣ができるまで仮本陣として使われていた。


願正寺の鐘楼と時の鐘
佐嘉城下に時間を知らせる鐘として
元禄九年八月から用いられた。


14 称念寺
願正寺とともに仮本陣として使用されていた。

    
15 龍造寺八幡宮
長崎街道は現在のエスプラッツの横を通り過ぎ、シンボルロードを横断し、神社の裏、北側
(左の写真トラックの止まっている道)を複雑に廻り込み、伊勢町方面へと続いている。

       
16 武家屋敷の門佐賀市重要文化財(建造物)
豊増家(旧鍋島監物屋敷)の門は、潜戸付長屋門である。
正面向って左側に二階建の番所があり、右側には籠を納める倉庫があって、屋根は本瓦葺入母屋造り、
外壁は漆喰塗り、腰は簓子下見板張り、番所の二階正面には出格子窓が設けられている。
門扉には両開き板唐戸で、扉の釣元に入八双金具、閂の金具隠しに饅頭金具が装飾されている。
規模は間口12.7メートル、奥行3.9メートルで、建築年代は明らかではないが、江戸時代の
様式をとどめた武家屋敷の長屋門として、当時を物語る遺構である

佐賀市教育委員会

右の写真は「洋画家 岡田三郎助誕生地」の記念碑


17 善佐衛門橋
土地の資産家が寄進したという江戸時代の石橋
護国神社の裏に架かっている。


18 大覚寺


19 伊勢神社
全国でただひとつ伊勢神宮の分霊を勧請できた神社

   
伊勢町の町並


肥前忠吉屋敷跡
肥前刀匠 橋本新左衛門の屋敷跡


本行寺
長崎街道から南へ90m程の国道207号線沿いにある
この寺は佐賀七賢人の一人「江藤新平」の墓所である。


20 旧城下町の道標 佐賀市重要有形文化財
この道標(みちしるべ)は、長崎街道に設けられた道標の一つで、もともとはここから8mほど東の、
長崎街道から南の諫早渡海場へ通じる三叉路に建てられていた。
幅21cmの安山岩製の方柱で、その上端は山形に削られている。
上部には方向を示すため人差し指を伸ばした手を浮き彫りし、その下に
「ながさきへ、こくらみち」「いさはやとかいばへ」と行先の地名が平仮名で陰刻されている。
この道標が造られた年代は明らかではないが、その様式から江戸時代中期以降のものであろうと考えられる。
江戸時代の街道は今日までの陸上交通の激変で大きく改変され、そこにあった一里塚や道標も
ほとんどが姿を消してしまった。そのような中、原位置の近くに現存するこの道標は往時の交通資料として高く評価される。

佐賀市教育委員会


21 のこぎり型家並
八戸町に今も残るこの不思議な家並は一軒一軒斜めに建っていて、上から見るとのこぎりの歯のように
見えることからこのような名で呼ばれている。
一説によると、敵襲のとき、家の鉤の部分に隠れ、奇襲攻撃するためだといわれている。


久保薬局の看板「牛黄清心圓」は
佐賀藩の秘伝薬だった。


22 龍雲寺
「葉隠」の口述者山本常朝の墓所

        
左は「武士道といふは、死ぬ事と見附けたり。」の一節で知られる「葉隠」口述者山本常朝の墓
右は明治39年に「葉隠」を初めて活字本として全国に紹介した中村郁一が建てた記念碑


23 地蔵院
街道を旅する人が必ず手を合わせたというお地蔵さん


24 番所跡
佐嘉宿の西の入り口の番所が実際に
あった場所だと思われる。


佐賀城下長崎街道西の入り口
八戸町の西の端、深町井樋に架けられた橋が高橋で、現国道207号線の新高橋と街道筋の
旧高橋は50mほどはなれ、平行に架けられている。旧高橋は慶長年間、佐賀城下町建設のときに
架設され、ここに番所が設けられたと考えられる。扇町の街道から旧高橋にさしかかる鍵型の
辻路は、嘉瀬方面から押し寄せる敵勢を本庄江でくい止めるために作られたと伝えられる。
高橋は本庄江を航行する船の往来を便利にするため、橋桁を高く持ち上げ、船の帆柱や竿が
支障なく通るようにしたため、その名が起こったといわれている。
江戸時代まで高橋の市場には集散する船の積み荷でにぎわっていた。
一(市)は高橋、二(荷)は牛津、三(産)は泰順、四(詩)は安道、五(碁)は但馬、
六(禄)は諫早、七(質)は成富、八(鉢)は皿山、九(句)は十万庵という
数え歌のように、高橋周辺は市として栄え、瓦屋、かまぼこ製造屋、元結紙製造屋などがあった。
(説明板)

    
25 高橋


佐賀城址
佐賀城鯱の門及び続櫓(重要文化財)
本丸御殿は慶長13年(1608)から同16年までの佐賀城総普請により造られましたが、
享保11年(1726)の大火で焼失しました。その後、約110年間は再建されることなく、
藩政は二の丸を中心として行われていました。
ところが、この二の丸も天保6年(1835)に火災に見舞われ、藩政の中核を失ってしまいました。
10代藩主鍋島直正はそれまで分散されていた役所を集め、行政機能を併せ持つ本丸御殿の再建に着手しました。
この鯱の門は、その時、本丸の門として建設されたもので天保9年(1838)の6月に完成したものです。
明治7年(1874)の佐賀の役で、佐賀城は戦火に見舞われました。
鯱の門にはその時の弾痕が残り、当時の戦闘の激しさがしのばれます。

門の構造は二重二階の櫓門に、一重二階の続櫓を組み合わせたものです。
屋根は本瓦葺、入母屋造りで大棟の南北には、佐賀藩御用鋳物師谷口清左衛門の手による
鯱がおかれ鍋島氏36万石にふさわしい規模・格式を有しています。

佐賀市教育委員会

佐賀城は明治7年(1874)に江藤新平が主導して起こした佐賀の役の戦闘で、鯱の門等を残して
ほとんどが焼失した。平成16年、本丸御殿が当時の木造建築様式をそのままに現代に再び甦った。

                                              (佐賀城址の写真は2008.10.2撮影)


門に残る佐賀の役戦闘時の弾痕
門のあちこちに無数にあり、穴の奥に
鉛らしき金属片が見える。


アームストロング砲
佐賀藩は我が国で初めて、高性能の近代的
大砲の製造に成功し、幕府や全国の諸藩から
多数の製造依頼を受けた。


佐賀城天守台跡
総普請の時造った五層の天守閣は大火で焼失し
その後鍋島直正が再建するとき幕府に遠慮して
天守は造らなかったといわれている。


佐賀城本丸歴史館
平成16年に復元された、木造の復元物としては
全国最大規模のものである。
320畳の外御書院や、御座間・堪忍所など
当時の間取りが再現され、博物館・イベント会場として
利用されている。
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