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田代宿 TASHIRO

街道御徒日誌(かいどうおかちにっし)

 2008年7月13日(日)晴れ
  
   国境石を見た後、あまりの暑さに堪らず「白坂」「木山口」を歩くのを断念し、
  けやき台駅から鳥栖行き普通電車に乗り田代駅に向かった。
  田代駅は駅員が一人だけの小さな駅である。
  その駅員さんが「梅雨が明けたと思ったら酷い暑さですね。」と私に話しかけてきた。
  こんな中途半端な時間に観光客みたいなオッサンが降りてきたので、もの珍しいのだろうか。
  ちょうど昼食時なのだが駅前には全く店舗は見あたらない。仕方ないので昌町を目指し歩き出す。
  しばらく歩くと、目印にと覚えていた「吉松産婦人科医院」の看板が見えてきた。
  この病院に隣接した場所に田代昌町の追分石が有るのだ。
  説明板と標識が病院の脇に建っていて、追分石は直ぐに発見した。
  自然石の道標に「左 こくら・はかた」「右 ひこ山」と彫ってある。
  左の道はすっかり現代の道路に直されているので、道幅も広く舗装されているが、右の道はおそらく昔のままであろうか、
  幅2メートルも無いくらいの細い道である。これでも車の無い時代では充分な広さの立派な街道だったんだろう。
  
  田代宿は肥前対馬藩宗氏の飛び地領であり、対馬から代官をはじめとする役人達を派遣し、
  さらに地元で雇った下役人を四十人ほど使い治めていたようである。
  こんな離れた処に領地を与えられていたのはいささか奇異な感じがするが、その理由は
  米がほとんど獲れない対馬藩の財政を支え、朝鮮・中国と直に接する国境の藩の忠誠を保つためだと云われている。
  
  昌町追分を後に田代外町へ向かって歩き出すと間もなく「伝・代官通用門」があり、
  さらに「八坂神社」「昌元寺」「代官所跡」等々と次々に史跡が連なる。
  それにしても昔どおりに町並みが残っているのには感心する。 素人の私でも難なく辿れるのは有り難い。
  
  田代外町で偶然見つけた小さな食堂で、遅い昼食を摂る。チャンポンとビールを注文する。
  老夫婦二人でやっているらしく、女将さんが注文を聞くとご亭主が運んできた。
  チャンポンの味はまあまあ美味しかったけど、ビールがヌルかった。 残念!!
  
   小一時間ほど休憩して、外町の追分を目指し、カンカン照りの中を再び歩き出す。
  外町の追分石は三叉路の突端に位置しているので、車などにぶっつけられて破損しないようにと思うが
  頑丈なガードレール状の鉄柵で前面を覆われていた。これでは景観が台無しである。
  たしかに狭い道ながら車が頻繁に通るが、いくらなんでももう少しなんとかならないだろうか。
  これではあんまりである。まあ壊れるのを防ぐのが最優先事項なのでしょうけど・・・なんだかなあ
  興ざめの面持ちでブツブツとぼやきながら「左 くるめ」の道を進み田代駅に戻る。

  再び車中の人となり、間もなく鳥栖駅に着く。現代の旅は楽ちんである。
  相当古びた建物の鳥栖駅を出て、瓜生野町を目指す。目的地は「鳥栖八坂神社」である。
  中央公園を抜けて近道をする。祭があるのだろうか、公園入り口に小さい山車が飾ってあった。
  八坂神社から「轟木宿」への道を辿ると、瓜生野通りや秋葉の町並みが連なり、
  所々に江戸時代を彷彿させる家並みもあったりしてなかなか良い雰囲気である。

  このへんは昔、製薬業が盛んで、多くの薬種商がいたという。
  そう言えば、近くにサロンパスの久光製薬があるのはその名残だろうか。
  
  「秋葉神社」の前から一段細くなった道を右折して行くと、いよいよ田代宿の終わりを飾る菅原道真公の
  「姿見の池/腰掛の石」に着く。
  JR鹿児島本線の高架をくぐり抜けると直ぐ、高架にへばりつくように急な傾斜地の狭い緑地があり
  そこに今は水がほとんど無く、とても姿など映りそうもないちっぽけな池と、丸みを帯びた大きな石が鎮座していた。
  うっかりすると見過ごしてしまうような場所で、実際私は通りがかりの人に尋ねたほどである。

  さらに街道を進むと、この先は轟木川(別名「番所川」)が流れていて、川を境に佐賀藩領内に入る。
  昔は川を渡った直ぐの処に番所が設けられていて、旅人の荷を厳しく改めていたという。
  
  轟木宿から「長崎街道肥前佐賀路」本通になる。
  

                                            (写真は全て2008.7.13撮影)
  





田代昌町追分石
写真正面に進む道が日田・英彦山道と呼ばれる道



「左 はかた・こくらへ」と読める。


鳥栖市重要有形民俗文化財
「田代宿(昌町)の追分石」  昭和四十九年五月十三日指定

この追分石には、「右・ひこ山へ/左・こくら・はかたへ」の文字が刻まれています。
江戸時代ここは長崎街道と日田・英彦山道の分岐点で田代宿の東北の出入り口でした。
「右・ひこ山へ」の道は日田・英彦山道と呼ばれ追分石から東へ姫方村、幡崎村などを経て
秋月街道と薩摩街道が交差する筑後国松崎宿(現 小郡市松崎)へと通じてました。
追分石には自然石が使われており、記録によれば享和二年(一八〇二年)にはこの地にあったようです。
「左・はかたへ」の方へ坂を下ると足洗川があります。田代宿に入る旅人がここで足を洗ったといわれています。

平成十五年三月吉日
鳥栖市教育委員会
(原文通り)



「右 ひこ山へ」



左のはかた・こくらへの坂道



追分から新町方面へ向かう。
左側の建物は「吉松産婦人科医院」



新町付近の町並み



伝・代官所通用門



通用門の対馬藩主宗氏の家紋



新町八坂神社



昌元寺



昌元寺山門から本堂を見る。



西清寺



浄覚寺



上町付近の町並み



代官所跡
田代小学校の校門傍にある。



上使屋跡
「御茶屋」と別称され幕府の役人や長崎奉行の休憩や宿泊に使用された。


「田代代官所跡」

江戸時代、鳥栖市の東半分は対馬藩領でした。
対馬藩は田代領を治めるために代官所を設置し役人を派遣しました。
田代上町に所在する西清寺の記録によると
元和年間(1615~1624年)に建築されたものと思われます。
「御勘定所田代覚書」には代官所の建物は田代上町にあり
「御屋舗(おやしき)」と呼ばれていたことが書かれています。
また、長崎街道に沿って南面し、表間口が四八間、奥行きは東八二間、
西七七間、裏は六八間の広さであったことがわかっています。
田代代官所は嘉永4年(1851年)に改築されたことが記録に残っています。
この指図はその時の設計図に当たるものと思われ、
弘化4年(1847年)の作成と考えられます。

指図には全部で60の部屋が記されています。また、建物の一部は2階建てになっていたようです。
指図左上の本屋は代官が公務を行った建物で、中庭の奥は住まいとして使われていました。
この他に、享保9年(1724年)の指図も現存しており、これらの指図は平成11年に鳥栖市重要文化財(歴史資料)に指定されました。

鳥栖市教育委員会
(原文通り)



東明館跡(対馬藩校)



広及舎跡
明治に入り廃藩置県により代官所が廃止された後、
元藩主宗氏が土地などの運営管理をさせていた組織



高札場跡
高札場とは告等の達し事項などを掲げた処



問屋場跡
道中人足や馬などを供給する処
今は久光製薬の広大な敷地になっている。



町本陣跡
(脇本陣・町茶屋)ここには伊能忠敬も宿泊した。



外町への街道


外町追分石
左の道は久留米へ、右は佐嘉へ通じている。



追分石は鉄柵で厳重に守られている。
ご覧の通り狭い道を無理矢理車が通る。


鳥栖市重要有形民俗文化財
「田代宿の追分石」  昭和四十九年五月十三日指定

追分石とは、街道が左右に分かれる所に道しるべとして建っている石(標柱)のことです。
長崎街道の重要な宿場であり、田代代官所があった田代宿の東西口に、自然石を使った追分石があります。
西口(田代外町)のものには「右 さか  左 くるめ道」と彫られており、
東口(田代昌町)のものには「右 ひこ山  左 こくら・はかた道」と彫られています。
両追分石には記年銘がありませんが、少なくとも享和二年(一八〇二年)以前に建立されたものと推定されます。

昭和六十年十一月吉日
鳥栖市教育委員会
(原文通り)



「左 くるめ 右 さか」とかろうじて読める。



瓜生野町鳥栖八坂神社



八坂神社の前の町並み
古い家がまだまだ残っている。



本照寺
ちょうど改修中のようであった。



瓜生野の通り



秋葉町の通り



秋葉神社
神社の境内で子供達が遊んでいた。
ブルーシートをかけた祭の山車が置いてあった。



神社と公民館の間にある標識
ここから右へ曲がると佐賀藩領轟木宿へ通じる。



轟木宿への街道
右の田代宿から来て右折(写真正面の道)すると
轟木番所を通過して佐賀藩領内に入る。



轟木宿への街道風景
漆喰作りの風格のある商家



秋葉神社と轟木番所の中間付近の標識
「長崎街道 左・田代宿 右・轟木宿」



姿見の池/腰掛の石
鹿児島本線の高架下にへばりつくような感じの狭小地である。


「姿見の池」  (史話伝説)

長崎市の中島天満宮に残っている聖廟記によると、延喜元年(九〇一年)菅原道真が太宰府に流されたとき
従った三澄左近将監時遠は、年老いて瓜生野(現在の元町)付近に隠居したが、時遠には子がなかったので、
道真に請い、五子、長寿麿を養子としてもらったと言う。
道真は、我が子に会うためしばしば瓜生野を訪れたが、そのとき腰をおろしたのが「腰掛の石」
そして長寿麿に与えるため水に映した自分の顔を描いたのが「姿見の池」と伝えられています。

昭和六十一年六月吉日
鳥栖市教育委員会
(原文通り)



姿見の池
水も殆ど涸れてしまっている。



腰掛の石
石の向こう側下方に池がある。

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