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轟木宿 TODOROKI
安良宿 YASURO 村田宿MURATA

街道御徒日誌
(かいどうおかちにっし)

 2008年10月12日(日)晴れ

   第1回目の田代宿のとき、轟木宿まで来たのだが、既に夕刻が迫り、日子神社あたりで断念した。
  今回二度目の訪問なので、鳥栖駅を出て直ぐ左の道を線路伝いに迷うことなく歩き、20分ほどで轟木に着いた。
  
   田代宿は対馬宗藩の飛び領地であるから、この轟木宿からが本当の「長崎街道肥前佐賀路」となる。
  轟木宿は小さな宿場であるが、国境の重要な防御地点であり、佐嘉藩は極めて厳重な警備をしていた。
  東の番所川と西の薬師川が宿場を守る外堀の役目を果たし、さらに藩主が泊まる御茶屋も壕で囲んでいたという。
  
   轟木宿の約2km先に、安良(やすろ)宿、村田宿という、さらに小さい宿場がある。
  轟木宿に宿泊客が多くて泊まりきれない場合、この二つの集落が下級武士たちの分宿地だったらしい。
   
   良い天気に恵まれ、日曜日ともあって、今日は長崎街道巡りの人が多い。
  残念ながら、若い人は一人も見かけず、全員年輩の集団である。私も含めてやっぱり年寄りはヒマなのかなあ。
  いやいや、人生を有意義に楽しんでいると言い直すべきか。ともあれ、元気に歩けるのは良いことである。
  見てると、経験のあるリーダーが引率して要所要所で説明しながら手際よく巡っていく。
  私のように一人巡行は、地図と磁石とカメラを両手にあっちへウロウロ、こっちへウロウロと大変である。   
  しかし、一人の方が良い面もあるのだ。事前にかなり調べてくるので史跡のいわれや、地理の概要がいやでも
  頭に残るので、現地に来て見て触れればそれだけひとつひとつの印象が深くなる。
  それにあまり知られていない遺跡などを、土地の人から聞き込んだら、自由気儘に行けるのが良い。
  と、負け惜しみを考えながら一人淋しく歩き続けた彦十であった。
  
  今回は一気に轟木宿から中原宿まで二つの宿場を巡ったので、約12km(約6時間強)の長い行程になった。

  安良という地名は文献には「やすろう」と書いてあるのも見かけたが、現地の説明板には「やすろ」となっており、
  土地の人に聞いても昔から「やすろ」と呼んでいるという。

                                                              写真撮影2008.10.12



①轟木橋

長崎街道・轟木宿
轟木宿は肥前鍋島藩の東端に位置する国境の宿場町で、轟木川(別名番所川)を
対馬宗藩との境界とし、番所が設けられきびしい検問を行っていました。
宿場町は上町(かんまち)・中町・下町(しもまち)・新町の四町から成り、番所は上町に、
幕府の布告・人馬の公定賃金などを書く制札(せいさつ)は中町との角に、
人足・馬を用立てる人馬置床は下町に設けられていました。
旅籠・商店は中町・下町に多く、長崎屋・角屋・泉屋・柳屋など十三軒の旅籠が並んでいました。
また、藩境であったため、藩主の宿泊する御茶屋も中町の東側に建てられていました。
新町には細工師・大工などが多く住み、職人町となっていました。

鳥栖市教育委員会



②番所川(轟木川)
橋の右側が対馬藩領田代宿、左側が佐嘉藩領轟木宿
江戸時代には橋は架けられてなく
飛び石伝いに渡っていた。


③番所跡
三叉路の角に番所跡の標柱が立っている。
国境の番所として旅人の荷物を厳しく改めた。


④上町
上町の町並み
写真の奥が番所方向、手前左に日子神社
通りの長さわずか百メートル余ぐらいである。


⑤日子神社
慶長二年(1597)鍋島直茂が豊前の
彦山権現を勧請して創建


⑥制札場跡
幕府の告示を掲げる場所である「高札場」を肥前では制札場(せいさつば)と呼んだ。
上町の突き当たり、日子神社の西側にあった。


⑦中町
日子神社の前の通りが中町
この先に旅籠・商店が並び、下町に続く。


橘屋・角屋などの旅籠が道の両側に並んでいた。
緑の病院の看板辺りの左奥に御茶屋があった。


⑧勢屯跡
勢屯(せいだまり)は殿様の御茶屋休息時
供侍が勢揃いする場所である。
左の道を左折すると御茶屋、右の道の奥が妙覚寺


⑨妙覚寺


六地蔵
勢屯への道の反対側の路地を入っていくと
人馬置床の裏手にある六面六体のお地蔵さん
があるがブロック塀に隠れて見つけづらい。


⑩人馬置床跡
問屋場の人足と馬の溜まり場跡
この斜め向かいに問屋場・飛脚問屋
を兼務する北村屋があった。


⑪下町
中町の南側が下町で、直ぐ三叉路になり
そこを西に右折すると新町に続く。
(三叉路方向から中町方面を見る。)


⑫新町
この辺りは職人の町であった。
(三叉路から薬師川方面を見る。)


⑬薬師川
新町のはずれに流れる薬師川までが轟木宿である。
川の傍に防塁が築かれ敵に備えていた。


⑭安良川橋
轟木宿から約1kmほど来ると安良川にぶつかる。
橋を渡ると安良峠にさしかかる。


⑮朝日山城址
安良川橋を渡った右手に小高い山が望見される。
建武元年(1334)に築かれた山城の跡である。


幸津井樋(さいついひ)
成富兵庫茂安は鍋島藩の家臣として仕え、藩内の治山治水事業に数多くの功績を残していますが、
鳥栖地域でも「幸津井樋」「五反三歩の池」などがよく知られています。
この幸津井樋は、安良川の右岸をせきとめ分水を幸津・儀徳・下野など約一五〇町歩(㌶)を
灌漑する目的で築造され、寛永三年(1626)に竣工しています。
樋管(ひかん)は幸津町上川原付近で水路が別れ、安良川沿いには霞堤(かすみづつみ)も築造されています。
用水が確保されることにより後年、この地方の米収が倍増する基礎をつくることになりました。
昭和六一年六月吉日    鳥栖市教育委員会

(安良川橋を渡って川沿いに北へ少し行った所にある、「シャルマン安良」というアパートの傍にある。)


⑯安良宿
安良は朝日山南麓にひろがる古くからの集落です。
朝日山は建武元年(1334)朝日一族によって山城が築かれています。
以来二五〇年間城主は変わっても山城として機能していました。また、古代においてもここに烽(のろし)が置かれ、
いつの時代にも幹道が通り、戦略的拠点として位置づけられていました。安良は江戸時代も長崎街道沿いにあたり、
《人家四〇軒ばかり茶屋多し》となります。旅籠はなかったものの、鍋島藩主の参勤交代などで、
轟木宿に宿泊客が多い場合安良にも分宿していたことが記録に残されています。

鳥栖市教育委員会



安良宿の街道両側にゴルフ場のコースがあり、
防護ネットのトンネルになっている。


⑰村田の六地蔵
村田宿に入るところに文化五年(1808)に造られた
お地蔵さんなど七体が祀ってある。


⑱村田宿
村田は《村田村、人家四〇軒ばかり、茶屋、酒屋あり》と記録にみえるように、
長崎街道沿いの町並みであると同時に村田鍋島家の城下町でもありました。
村田鍋島家は貞享元年(1684)に創設され、村田・江島・儀徳村六〇〇〇石を治めていました。
村田八幡宮は村田鍋島家の惣社として祀られ、その神幸祭は現在でも、「村田浮立(ふりゅう)」
として盛んに執り行われています。
村田八幡宮と長崎街道との交叉点付近には恵比須像二体(うち一体は西へ移転)がみられ、
商業の町としても栄えていたことを示しています。

鳥栖市教育委員会

(村田鍋島家は佐嘉藩の親類四家のひとつ)


⑲村田八幡宮
長崎街道から少し外れた国道34号線沿いにある。
この日はちょうど神幸祭の日で幟が立っていた。


佐賀競馬場
国道34号線と合流してしばらく進むと
五反三歩池の手前左手に広大な競馬場が見える。


⑳五反三歩池
競馬場を過ぎ再び34号線から離れ旧道に入ると
左手に草に覆われて街道からはあまり水面が見えないが
成富兵庫茂安が造った五反三歩の広さがあると
いわれる用水池がある。



地蔵堂・長崎街道標柱
用水池を過ぎて、再び34号線に合流するところ。
写真奥の方向に国道34号線が左右に走っている。
ここで村田宿は終わりを告げ中原宿へと継ながる。

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