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嬉野宿 URESHINO

街道御徒日誌
(かいどうおかちにっし)
 
 2008年9月23日(火)曇り時々俄雨

  嬉野宿は嬉野湯宿、嬉野湯町、嬉野駅などと呼ばれ、古くから湯治場として栄え、後には長崎奉行なども
 宿泊するようになり、大村との藩境の重要な宿場町へと発展していった。
 ここは佐賀藩の三支藩のひとつ蓮池支藩の領地であり、佐賀藩の初代藩主鍋島勝茂の三男直澄が
 初代蓮池藩主として治めた宿場町である。
  
  宿場の東西にそれぞれ構口(町木戸)が設けられ、約五百メートルほどの通りの中に三十軒余の旅籠と
 木賃宿・商家・農家などが百軒ほど立ち並ぶ小規模の宿場であった。
 
 
  さて、生憎の天候のなか、最初に明元寺へ向かう。この寺には上使屋の門を移設し山門として保存してあるという。
 長崎街道の面影を色濃く残した通りを武雄方面に向かい歩いて行くと右手に立派なお寺が見えてきた。
 写真で見た印象と違い、新しく立て直されて近代的な今風な綺麗なお寺になっていた。
 山門の上使屋の門も説明板などが補充整備されて史跡らしくなっている。
 今日はお彼岸の中日で大勢の門徒が本堂に詰めているようで、境内には車が溢れている。
 
  来た道を引き返し、嬉野温泉街に向かう。温泉四区の和多屋別荘の入り口付近に東の構口(町木戸)跡がある。
 それから豊玉姫神社跡、上使屋跡、藩営浴場跡、最後に町の外れ付近の大正屋の前にある西の構口跡と巡って行った。
 街道から少し離れた所に本陣に当てられていた瑞光寺があり、そちらにも廻った。
 
  他の宿場に比べて歩く距離が短くて、きわめて楽な歩程で助かったと思っていたら、神様はちゃんと試練を
 与えるべく図られておられた。・・・
  町からかなり距離のある、俵坂の関所跡に向かった頃から、天候はひどいどしゃ降りの雨になってしまった。
 このあたりは人家もあまり無い寂しい所であり雨宿りする場所もない。
 しかし、幸い雨は通り雨で、そう長くは続かず、関所跡に着く頃には小糠雨に変わった。
 
  関所跡は大村藩(長崎県)との藩境近くの険しい峠に設けられていたのだが、今は国道にかき消されるようにその面影は
 判らなくなっており、俵坂のバス停にある案内板を見て、国道の遙か下の方に見つけることが出来た。
 これで嬉野宿の長崎街道を概ね廻り尽くしたことになるのではないだろうか。
  
  今回は天候には恵まれなかったが、史跡が良く整備されていることと、範囲があまり広くないのが相まって
 史跡を探し回ることもなく比較的短時間の楽な御徒道程だった。


                                           (写真は特に記したもの以外は2008.9.23撮影)




東構口(町木戸)跡
  
江戸時代嬉野町は平野部を蓮池支藩、周辺山地側を佐賀本藩が領有しており、
長崎街道の通過する嬉野の宿場は蓮池支藩の支配地でした。
宿場は当時、嬉野湯宿または嬉野湯町ともよばれ、宿場の東西端には街道に町木戸を構え、
宿場の境界を示し、この場所を構口とよんでいました。
構口の木戸は、東口が現在の和多屋別荘の本通り入り口付近と西口は大正屋入り口付近に建てられており、
宿場の長さは約五百メートルで、平時は監視する人も扉もない木戸でしたが、
変事のときは防御地点となる重要な役目を持っていました。

宿場内には、三十軒余の旅籠、木賃宿や商家など百軒程のわら屋根の家が街道添いに建ち並び、
宿場の中央には豊玉姫神社、その隣にはお茶屋(上使屋)、人馬継立所、高札場等があり、
嬉野川沿いには藩営の温泉浴場が設けられていました。
また、長崎奉行などが宿泊する本陣は街道から北へ約三百メートル離れた瑞光寺が利用されていました。

平成十年三月       嬉野市


東構口から塚崎(武雄)、塩田方面を見る


東構口の嬉野宿入り口


碑の裏側は旧嬉野町警察署の建物が在った所


②新湯入り口・番号石

 嬉野には昔二カ所の公衆浴場があり、一つは蓮池藩営の浴場でもあった古湯。そしてもう一つがこの新湯である。

番号石

番号石は、江戸時代の嬉野の特異性を物語るもので、佐賀本藩と蓮池支藩との間に境界をめぐって紛争が起こり、
4年間の交渉の後、境界線上40㎞にわたって約二千個の番号石(藩境石)が設置されていました。

この番号石は、自然石や切り出した安山岩、砂岩に和数字を刻み込んだもので、
石の大きさは平均して高さ60~80㎝、幅30~50㎝、厚さ15~30㎝ぐらいのものでした。 
 

③山頭火記念碑
 
 井手酒造の前に種田山頭火が昭和七年に
嬉野に滞在したときの記念碑がある。

「湯壺から桜ふくらんだ ゆっくり湯に浸り沈丁花」

                      昭和七年三月


④豊玉姫神社跡

江戸時代の豊玉姫神社は嬉野宿中心部、現在のハッピータウンからこの場所までの広い地域に
高さ三尺(約1m)ほどの石垣を築いて鎮座していた。寛永十八年(1641年)に蓮池鍋島家の祈願所になったといわれる。
瑞光寺が長崎奉行の本陣となった時には宿場で一番の良建築であった社務所は奉行所幹部の宿とされた。

天保三年(1832年)の大火で焼失し、その時焼け残った蓮池領内一の巨楠は
藩主御用の船材として弘化四年(1847年)に伐採された。

平成十三年十二月    嬉野市  


⑤上使屋跡

 江戸時代嬉野町は佐賀藩蓮池支藩の支配地でした。
当時は長崎街道嬉野宿(嬉野湯宿)と呼ばれ大村領から佐賀領に入った第一番目の重要な宿場でした。
上使屋(御茶屋)とは、大名、長崎奉行、幕府役人、他藩の上級武士を休憩宿泊させ接待するためのもので、
佐賀藩では二十ヶ所ほど用意されていました。

嬉野湯宿の上使屋は武雄御茶屋とともに温泉付きの特別のもので現在の湯遊広場から
この場所あたりまで設けられていました。

文久二年(1862年)に豊玉姫神社境内の一部を取り入れ拡張され新上使屋が完成しましたが
江戸幕府が倒れ廃藩となり明治四年民間に払い下げられ塩屋という嬉野第一の旅館となりました。
塩屋は大正十一年の嬉野の大火の折焼失しましたが上使屋の門は嬉野町下宿の明元寺の山門として現存しています。

平成十二年十月     嬉野市


⑥明元寺・上使屋の門

 塚崎(武雄)道あるいは塩田道から嬉野宿へ入る直前の下宿村にある明元寺の山門は
嬉野宿上使屋(御茶屋)のかっての門であり、明治の廃藩置県により上使屋が廃止された際に
ここへ移設された現存する江戸時代の建築物としては貴重なものである。


上使屋跡付近の宿中心部あたりの町並み

 

⑦シーボルトの足湯

 最近出来た無料の観光施設


⑧蓮池藩営浴場跡

 ここは蓮池藩営の温泉浴場跡で身分により上湯、並湯と区分され、入浴料金も細かく規定されていた。
オランダ商館医師ケンペルは『江戸参府紀行』に浴場の様子を
「その場所は竹の生け垣できれいに囲まれ、見張り所や別荘もある。・・・屋根の下に廊下が巡らされ、
仕切られた六つの部屋があり・・・傍には藁屋根の別の休憩所があった・・・」
と記している。

(2005年3月撮影)
今は空き地となっているが、明治の始めに民間に払い下げられた後、嬉野温泉場(古湯温泉)として
近代的な建物に変わったが、大正11年温泉街の大火により焼失した。

大正13年ドイツ人の設計により、写真の大正浪漫漂うゴシック建築の公衆浴場が建設された。

しかし、この建物は平成8年9月に老朽化により閉鎖、同17年6月ついに解体された。
永い間嬉野温泉のシンボルのような建物であったが通常の施設と違い、
浴場の湿気などが老朽化を早めたのではないだろうか。


今、跡地には再生する旨の看板が立てられているが、その時期や構想等は何も書かれていない。


塩田川(嬉野川)の対岸から見た古湯跡

鉄橋の右側一帯に木の柵を張り巡らしてあるところが浴場跡

⑨大村屋跡

 橋の後方の茶色の建物付近に、日本で初めて実測による日本地図を作った伊能忠敬や
文人の太田南畝が本陣として利用した旅籠大村屋が在った所

江戸時代には橋は無く、的場の渡しといって、人々は飛び石伝いに渡らなければならなかった。


⑩豊玉姫神社

 西構口の斜め向かいに豊玉姫神社の参道があり、その奥に藩主鍋島直澄公の祈願所であった豊玉姫神社の社殿がある。
神社縁起によると神社の歴史は古く、天正年間(1573~1592年)兵火のために焼失してしまったが、
元和年間(1615~1624年)に再建された。

豊玉姫様は海神の娘で、竜宮城の乙姫様としても有名であり、古来より水の神、海の神として、広く崇敬を集めている。


⑪瑞光寺・嬉野宿本陣跡

 長崎街道嬉野宿本陣として大名、長崎奉行、幕府役人などが宿泊した所

瑞光寺は応安二年(1369年)創建
明和二年(1765年)~文久二年(1862年)の間、嬉野宿本陣として使用された。


総門を潜ると階段の先に古い大きな山門があり、その奥に地蔵堂があって、さらに階段を上がった先に本堂がある。
鬱蒼と茂った楠などの大木や竹林に囲まれた伽藍は相当大きく古い歴史が感じられる。


総門を潜った放生池の畔に立っている「瑞光寺のクスノキ」(市指定天然記念物)

樹齢: 推定800年  高さ: 23.5メートル  根本周り: 8.6メートル

嬉野で最も古い木といわれている。


⑫西構口跡

 嬉野宿西の出入り口にあった町木戸跡
 現在の旅館大正屋入り口にある。


西構口から大村方面への街道筋
 ここから約3kmチョットほど行くと俵坂関所跡に辿り着く。

⑬轟の滝

 嬉野宿を出て俵坂の番所までの途中に二筋の滝が落ちている景勝地がある。
きっと江戸時代の旅人もここでしばし休息して滝を眺めたことだろう。

現在は公園として大規模に整備されている。


⑭俵坂関所跡

 江戸時代、幕府の管轄を関所、藩の管轄を口留番所と呼び、正しくは「俵坂口留番所」である。
戦国時代にはすでに関所としての機能があったと伝えられるが、創設の時代は不明である。
江戸時代になると長崎街道として佐賀、大村両藩の藩境の要地となり、特にキリシタンの取り締まりが厳しかったといわれる。

敷地面積二百余坪、建物は間口四間(約4.7m)、奥行き七間(約8.2m)の構えで侍一名、足軽九名が監視にあたり、
通路には門柱が建てられ、その両脇には竹の柵が巡らされていた。
大名行列御通行のおりには番所役人は威儀を正して平伏し、送り迎えしたといわれる。
明治維新を向かえ明治四年(1872年)の廃藩置県によって廃止になった。

嬉野市教育委員会

この記念碑は当時の番所に使われていた門柱を利用して建てられた。


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